日々のくらし米麦野菜 清水農園・厚木

神奈川県厚木市の小農家 都市化の中でチャレンジ

飯舘村訪問記

 ひょんなことから念願であった飯舘村を訪問する機会を得た。住民の方の案内付きで住民が抱えている苦悩の一端に触れる機会をいただいた。4年前に飯舘村の職員の方から避難と村の現状について話を聞く機会がありそれ以来の関心ごとであった。飯舘村は2011年3月の東北地方太平洋沖地震とそれにより引き起こされた福島第一原発事故により全村避難を強いられた。昨年3月大部分の地域は避難解除されたものの今回訪問し話を聞かせていただいた長泥地区はなお帰還できないどころかより一層の困難に直面している。

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 飯舘村は飯舘牛の産地であり、村内には畜産技術センターも置かれていた。訪問したお宅では原発事故前牛の繁殖農家として種付けとできた仔牛を肥育農家に売ることもしてきた。アスパラガスの栽培が軌道にのってきた来たところだったという。写真のホワイトボードには安福勝の文字も見える。それが事故後は避難に精一杯で6頭の牛は手放さざるをえなかったという。がらんとしてはや7年。切ない。

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 牛舎の向こうにはクレーンが見える。ここ長泥地区は国の施策として200万個分のフレコンバッグに詰められた汚染土を農地回復実証実験あるいは8000ベクレル以下はリサイクルという名目で運び込む考えだ。そのために家や施設は解体し、この牛舎ももうじき取り壊される。一部分は帰還できるようにエリアを決めるとしているがそこに住める人がいるのだろうか。計画を立案した環境省の官舎を建てるべきだ。住民はふるさとを失う不安でいっぱいだ。これまでこの長泥地区だけが除染対象から外されていたことに不安を持ち、いつになったら除染作業が始まるのか、ほかになにかあるか住民は危惧していた。国はフレコンバック200万個分を受け入れるか、このまま放射線値が下がるのを待って除染作業なしで避難解除するか選択を迫ってきたという。長泥地区には原発事故後避難する人が押し寄せ、皆でおにぎりの炊き出しなどして支えてきたが研究者が持ち込んだ測定器で汚染がわかり慌てて自分たちも避難したという経過を辿っている。国のスピーディという観測システムがありながら国は長泥地区住民に避難を指示せず放置してきたという無責任ぶりにも驚かされる。国環境省の考えは「除去土壌再生利用実証事業について」を検索し、20ページから。飯舘村からの要望の形をとっていることに驚かされる。ジャーナリストのレポ記事は「住民の反対むなしく進む「汚染土」再利用計画、放射能バラまきに待ったなし!?」週刊女性2018年9月11日号に。

 事故後3年後にNHK大越キャスターが取材し、放送された番組を今回見せていただいた。歴史の貴重な証言だ。炊き出しを行った公民館も見せていただいた。

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 飯舘村阿武隈山地の中ほどに位置し、標高は400メートル。夏でもクーラーはほとんどいらない。日本の最も美しい村連合に加盟し、いいたて流スローライフ「までぃライフ」を掲げている。低い山並みと田園風景は美しい。空が広い。野立て看板がない。い。自分はサイクリングが好きだがイギリスにサイクリングを題材にした風景画としてパターソンズブックという画集があるがまさにその世界。美しい村を6年間の全村避難に追い込み、今なお人々を放射能汚染で苦しめている国や東京電力の責任は重いしこんあことでごまかすべきではない。汚染の除去と回復につとめるべき。安全対策を軽視し、冷静さを失い自らが安全神話に酔いしれた国・東電の責任は徹底的に追及されるべきだ。関心をなくすべきではないと深く感じた。